歴史医療の進歩を生かす鍵
腎バンク、骨髄バンク推進

医療の進歩を生かす鍵 腎バンク、骨髄バンク推進
高知黒潮ライオンズクラブは年間約50回、骨髄バンクのドナー登録会を開催している

腎移植と骨髄移植。かつては不治の病だった腎不全や白血病などの病気が、移植医療の進歩により治療可能になった。1950年代から献眼事業、60年代から献血事業を市民の先頭に立って進めてきた日本のライオンズは、80年代に入ると、新たな人道支援として腎バンクと骨髄バンクの普及に力を注いでいく。

腎臓は老廃物や余分な水分、塩分などを尿として排出し、体内を常に適切な環境に保つ働きをする臓器だ。この機能が低下すると全身にさまざまな影響が現れ、悪化すれば命にもかかわる。治療による回復が見込めない場合、透析療法か腎移植が必要になる。透析は腎臓の代わりに人工的な装置を通して血液を濾過(ろか)するもので、1日おきに1回当たり4~5時間をかけて行われる。そのために多くの時間が割かれるだけでなく、塩分や水分摂取の厳しい管理など、生活に多くの制限が生じることになる。しかも透析は回復を目指す治療ではなく、生き続けるための対症療法だ。透析に代わる方法は腎移植しかない。移植を受ければ、病気以前と同じような生活を送れるようになる。が、提供者(ドナー)がいなければ移植は成り立たない。

腎移植には、二つある腎臓の一つを親族から提供してもらう「生体腎移植」と、腎バンクに登録していたドナーが亡くなった後に摘出して移植する「死体腎移植」がある。免疫抑制剤の開発などにより、1980年代に入ると腎移植後の3年生着率は生体腎移植で8割、死体腎移植でも7割を超え、大変有効な治療法となった。日本各地に腎バンクが出来始めたこの頃から、数々のライオンズクラブが腎バンクに注目、支援活動をスタートさせた。

地元の七夕まつりで、ガールスカウトと一緒に献眼、献腎、献血、骨髄移植推進活動を行う愛知県・安城南ライオンズクラブ

最も早い時期から腎バンク支援に取り組んだクラブの一つに、宮城県・仙台萩ライオンズクラブがある。1980年にはクラブ結成5周年記念として、全会員が腎バンクに登録。また市内の目抜き通り3カ所で腎バンク登録推進キャンペーンを実施した。新聞やテレビ各社がこれを報道し、大きな反響を得た。翌年以降もキャンペーンは継続され、82年からは宮城県警察音楽隊を先頭に市内パレードを繰り広げパンフレットを配布し、市民に協力を呼びかけた。また同じく82年に、東京赤坂ライオンズクラブと連携し、「腎移植者親善ソフトボール大会」を企画した。腎移植を受け健康を取り戻した患者による試合だ。残念ながら初年度は雨で流れたが、83年に仙台で念願の開催。患者チームの東京キッドと宮城クラフツが対戦し、投げ、打ち、走り、汗を飛ばして飛び回った。出場した選手は「私たちは腎臓病患者のほんの一部です。移植を受けたくても受けられずにいる人がまだたくさんいることを知ってください」と訴えた(『ライオン誌』87年10月号)

84年に東京で第3回ソフトボール大会が開催された時には、東京赤坂ライオンズクラブ・メンバーの夫人である女優の藤村志保さんが観戦していた。腎臓病で死の淵にいた人が、亡くなった人の臓器の一部を頂いて生還し、炎天下を走り回っている。全身で「見てくれ、僕はこんなに元気になったんだ!」と叫んでいる。藤村さんはその感動をベースにルポルタージュ『脳死をこえて』を執筆。これが読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞に入賞し、後にテレビドラマ化され全国放送されることになった。

腎移植は有効な療法であり、日本には十分な技術がある。日本中のライオンズがそれを生かすために、さまざまな形で腎バンクへの支援を続けてきた。にもかかわらず、臓器提供数が十分には増えていないのが現状だ。1997年に脳死後の臓器提供を可能とする臓器移植法が、2010年には本人の意思が不明でも家族の承諾で臓器提供が出来る改正臓器移植法が施行されたが、年間の臓器提供件数は100件前後で横ばいを続けている。日本臓器移植ネットワークによると、腎臓移植希望者の平均待機期間は14年8カ月。患者に寄り添うライオンズにとっても、これは大きな課題である。

1992年に330-A地区4リジョンが主催した、骨髄バンク事業開始記念の公開シンポジウム

白血病や重症再生不良性貧血などの血液難病でも、骨髄移植という治療法が生まれた。が、移植を行うには、患者と骨髄提供者の白血球の型(HLA)が一致していなければならない。これが一致する確率は、非血縁者の場合数百人から数万人に一人と非常に低く、個人でドナーを見つけ出すことは不可能に近い。そこで骨髄提供の意思のある人にあらかじめ登録してもらい、骨髄移植希望者と型の照合を行うのが骨髄バンクである。

1975年、イギリスで世界初の骨髄バンクが設立され、86年には世界規模の全米骨髄バンクがスタート。日本での早期設立を望む声が高まる中、ライオンズクラブも動いた。京都市・福知山東ライオンズクラブは87年、白血病を患う11歳の少女の親による切実な訴えを聞いたのをきっかけに、骨髄バンク設立運動を開始。これが世論を喚起し、335-C地区(京都府、滋賀県、奈良県)、そして335複合地区の事業へと広がった。

日本で最初の骨髄バンクは、1988年に誕生した民間の東海骨髄バンクだ。その設立に尽力して代表を務めたのは、自身が白血病患者であった大谷貴子さん。大谷さんは幸運にも、ほとんど適合しないとされる母親とHLAが一致し、移植を受けることが出来た。しかし同じ病と闘っていた何人もの仲間が、ドナーが見つかる前に亡くなっていった。彼らの思いを引き継ぐために、そしてドナーを待ち望んでいる人たちのために、必ず骨髄バンクを作ろうと心に誓い、実現させた。

愛知県・名古屋瑞穂ライオンズクラブが大谷さんと出会ったのは、彼女が東海骨髄バンクを設立して間もない頃。「全国にはドナーさえ見つかれば助かる命が何千とあるのだ」という彼女の訴えに感銘を受け、共に国に対して公的骨髄バンク設立を求める活動に乗り出した。まずは運動資金50万円と、4396人分の署名を集め大谷さんに渡した。翌年には334-A地区(愛知県)の主要事業となり、啓発活動やチャリティー・イベント等を展開。また地区全体で集めた公的骨髄バンク設立に向けた12万人分の署名を、衆参両院議長に提出した(『ライオン誌』90年10月号)

1980年代後半には、化学療法と骨髄移植の併用により白血病患者の5年生存率が70~80%まで上昇し、同時に公的骨髄バンクを求める機運が全国的に高まっていった。そしてついに1991年、財団法人骨髄移植推進財団(日本骨髄バンク)が設立されたのである。翌92年には、330-A地区(東京都)4リジョンが骨髄バンク事業開始記念・公開シンポジウムを開催。共催の全国骨髄バンク推進連絡協議会の会長に内定した海部幸代さん(海部俊樹前総理<東京センチュリー ライオンズクラブ>夫人)へ活動資金を贈呈した他、骨髄移植についての基調講演や骨髄提供者による体験発表などが行われた。

しかし、公的骨髄バンク設立はスタートであってゴールではない。その後も全国のライオンズクラブによる支援活動は続いている。高知黒潮ライオンズクラブは啓発活動やドナー登録会の開催に加え、2015年に民間では全国初となるドナー助成制度を立ち上げた。ドナーは移植のための検査や入院で10日程度仕事を休まなくてはならず、経済的な理由で提供を断る人もいる。ドナーの負担を軽減することで、ようやく見つかった適合者が移植に進めるように、助成を行うものだ。この取り組みは高知県及び県内市町村へ広がりを見せている(ライオン誌ウェブマガジン20年10月号)

兵庫県・西宮ホワイト ライオンズクラブが地域のイベント会場で実施したさい帯血チャリティー・バザーでは、さい帯血に関するリーフレットの配布や募金も行う

1990年代後半になると白血病などの移植治療のために、赤ちゃんのへその緒の中にある血液「さい帯血」が出産時に採取され用いられるようになった。さい帯血には造血幹細胞がたくさん含まれている。334-A地区は97年、ライオンズクラブ国際財団(LCIF)から交付金を受け、さい帯血の凍結保存用タンク6基を購入、東海臍帯血バンクへ寄贈した。兵庫県・西宮ホワイト ライオンズクラブは2002年のクラブ結成以来、さい帯血バンク支援に取り組んでいる(ウェブマガジン「活動報告」19年11月掲載)

進歩する移植医療が生かされるためには、ドナーの協力が不可欠だ。病気と闘いながら、ドナーが見つかることを祈る患者や家族の思い。それを想像するきっかけさえあれば、きっと多くの人が助けになりたいと思うだろう。例えば2年前、競泳の池江璃花子選手が白血病発症を公表した時、骨髄バンクの登録者が急増したように。ただ、日々新しいことが起きるので、そうした思いも次第に置き去りにされてしまう。だからライオンズはこれまでも、これからも、想像するきっかけと正しい情報、協力する機会を提供し続けるのだ。

2021.06更新(文/柳瀬祐子)