歴史世界平和の礎づくり
世界青年会議

世界平和の礎づくり  世界青年会議
滋賀県の伝統芸能・江州(ごうしゅう)音頭を踊って親睦を深める世界青年会議の参加者たち

1991年8月25日から9月1日までの1週間、滋賀県守山市のKBSびわ湖教育センターで、世界22カ国の大学生40人が集い「世界青年会議」が開催された。これは「世界平和と人類の繁栄のために」をテーマに掲げた、ライオンズクラブ国際協会創設75周年の記念事業だ。日本を始め、アメリカ、カナダ、インド、ネパール、フランス、ノルウェーなど、世界各地の複合地区から推薦された学生が生活を共にする中で、平和について議論を交わし、笑い合い、語り合い、さまざまな経験を共有する。日本で開かれたのは、同会議の開催を主導したドナルド・E・バンカー国際会長の「世界の若者たちが平和について語り合う場所は、世界で唯一の被爆国であり、平和国家である日本が望ましい」という強い希望があったからだ。渡航費は参加者を送り出す複合地区の、日本国内での諸経費はホストである日本ライオンズの負担となり、日本では会員一人当たり200円、約3200万円が集められた。

この頃の世界情勢といえば、1989年にベルリンの壁が一夜にして崩壊し、これを皮切りに東欧諸国で共産党体制が連続的に倒れた。1990年にはイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、アメリカを始めとする多国籍軍が構成されイラクを爆撃、湾岸戦争へと発展した。更に1991年8月、世界青年会議の直前に、ソ連では保守派グループがクーデターを起こし、改革派のゴルバチョフ大統領を軟禁。改革を望む市民の抵抗によりクーデターは失敗し、ソビエト連邦は解体へと進んでいく。そうした混乱により、会議に出席予定だったロシア共和国の青年が、急きょ参加出来なくなる事態になった。

世界青年会議の会場となったKBSびわ湖教育センター

世界青年会議のスケジュールは、教育センターでの会議や講演等が3日間、そして広島と京都・大阪への見学に移動を含め各2日が当てられた。講演には東京大学名誉教授の西部邁氏、京都・大徳寺住職の尾関宗園氏らが招かれた。日本を公式訪問中だったバンカー国際会長も会場を訪れ、開会式で講演を行った他、広島見学にも同行した。『ライオン誌』1991年11月号では、世界青年会議の特集記事を掲載。その中に、日本人参加者の一人である大学3年生の西原里江さんが「世界青年会議から得た私の収穫」として参加記を寄せているので、彼女の手記から会議の様子を見てみたい。

西原さんは「会議は大成功だった」とした上で、若者らしい率直な意見も示している。学者らの講演後にはディスカッションが設けられたが、例えば民主主義と日本国憲法に焦点を当てた時には、あまり新鮮な意見は得られなかったこと、また経済がテーマになった際も、日ごろから情報を得やすい日米欧についての話題が多く、被援助国からの生の声にもっと耳を傾けるべきだったと残念がった。そして次回は講演をなくして討論の時間を増やすこと、更に参加者に事前にディスカッションのテーマを伝えておき、各自がより深く準備した上で討論した方が活発で面白くなる、と提案している。

一方、期待以上の体験もあったようだ。3日目の夜には、滋賀県の伝統芸能である江州音頭を参加者全員で踊った。皆で法被を着て、太鼓に合わせて2時間以上も踊り続け、会議では得られない一体感が生まれた。「傑出した企画となった」と評したのは、広島見学だ。西原さん自身も初めて原爆資料館の展示を見て、それまで持っていた「世界平和を守るための戦争ならば否定出来ない」という意見を一蹴され、いかなる状況でも国民おのおのが戦争以外の解決策を模索する義務があることを教えられた、と言う。予備知識がない海外からの参加者が受けた衝撃はなおさらで、「祖父や父が日本に対して許しがたい行為をした」と、涙ながらに訴えるアメリカからの参加者もいた。西原さんは「過去に起きた戦争の恐ろしさを通じて、平和の尊さを改めて認識し、広島で受けた素直な感情を今後いかに発表し、未来へと伝えていくかを考えていかなければならない」と、決意を語る。

ディスカッションで意見を交わす参加者たち

もう一つ、西原さんの心に深く刻まれたのは、ネパールからの参加者、トゥルシさんとの出会いだ。彼はいつでも茶目っ気たっぷりの明るさで周囲を楽しませてくれる参加者の一人だった。しかし閉会式後のさよならパーティーで初めて、「彼はこの会議に来るために、土地を売ったそうだよ」という話を聞く。西原さんはきらびやかなミラーボールや、食べきれずに冷えかかった料理を前に、「こんな私たちが本気で平和について話し合ったのか。私たちは何を得たのか。彼に土地を失わせる価値があったのか」と、自問するのだ。翌朝の朝食、彼女はトゥルシさんの隣の席に座り、話を聞いた。ネパールのライオンズは青年会議への参加を呼びかけたものの、旅費は払えないと告げられたこと。それでも開催地が日本だと聞いて、一生に一度のチャンスだと思い参加を決めたこと。4人兄弟で所有している土地の彼の持ち分を売り、飛行機代にしたこと。途中で下を向き、何度か黙り込みながら言葉は紡がれた。参加者の多くが享受している豊かさとの埋めがたいギャップ。西原さんは行き場のない憤りを感じた。それでも彼女は参加記にこう書いている。「貧困を知り、それを正そうとする人が一人ずつ増えていくことで、世界は平和で豊かになれると思うようになった。それこそが世界青年会議に参加した最大の収穫だった」と。

世界青年会議はその集大成として、参加者全員の連名による「平和を求める書簡」を作成。ハビエル・ペレス・デクエヤル国連事務総長に宛てて提出された。

翌年3月、バンカー国際会長はニューヨークの国連ビルで開催された国連ライオンズ・デーで、世界青年会議について言及。「彼らが育てた平和の種子が、それぞれの国に持ち帰られ植え付けられている」と、平和への確信を語った。

2021.05更新(文/柳瀬祐子)