テーマ車いすバスケの魅力を
多くの市民に知ってほしい

車いすバスケの魅力を多くの市民に知ってほしい
2019年8月31日〜9月1日、久留米アリーナで開催された第36回りんどう杯車いすバスケットボール九州大会

車いすの車輪を操って猛烈な勢いでゴールへ突進。激しい接触による転倒もものともせずに起き上がってプレーを続行する。巧みな車いすさばきやスピード感、迫力あるぶつかり合いなど、車いすバスケットボールの見どころは豊富だ。ヨーロッパにはプロリーグがあり、日本のトップ選手で北京、ロンドン、リオデジャネイロと3回のパラリンピックで日本代表としてプレーした香西宏昭選手は、現在ドイツのプロ・チームで活躍している。

東京オリンピック・パラリンピックに向けて、障害者スポーツへの関心を高め、その魅力を広めようという取り組みが各種メディアや自治体などで行われているが、国内で障害者スポーツの大会を観戦する人は選手の関係者などに限られるのが現状。そんな中、出場選手が「毎年大勢の応援の中でプレーが出来て、すごくうれしい。まるでプロのバスケットボール選手になったかのよう」と感想をもらす大会がある。久留米りんどうライオンズクラブ(藤岡敏行会長/67人)が地元久留米のチームを応援しようと1985年に始めた、りんどう杯車いすバスケットボール九州大会だ。毎年8月末から9月初旬にかけての2日間で開催されるこの大会では、市内の中学生が観戦するのが恒例。迫力いっぱいの選手たちのプレーに、心のこもった声援が送られる。

車いすバスケットボールは、1960年に厚生省からイギリスへ派遣されてスポーツ・リハビリテーションを学んだ国立別府病院(現・国立病院機構別府医療センター)の中村裕博士によって日本に紹介された。第二次大戦後、米英の傷痍(しょうい)軍人によって誕生した車いすスポーツの一つで、イギリスではパラリンピックの生みの親として知られるストーク・マンデビル病院のルードウィッヒ・グットマン博士が、脊髄(せきずい)損傷者の治療法の一つに採用していた。1964年、中村博士が日本選手団団長を務めた東京パラリンピックをきっかけに全国へ普及。各地の障害者施設にクラブチームが生まれていく。1975年には日本車いすバスケットボール連盟が設立されて、同時に全国10地区の地方連盟が組織された。とはいえ、競技人口は少なく、練習相手や試合相手を探すだけでも一苦労という状態だった。

そうした悩みを抱える地元・久留米の車いすバスケットボールチームのために、久留米りんどうライオンズクラブは久留米市バスケットボール協会などと協力し、市外のチームを招いて大会を開くことにした。第1回は出場4チーム、選手約50人、観客150人の小さな大会だったが、その後、回を重ねるごとに参加チームが増え、第6回以降は13~15チームの大会に発展。九州だけでなく山口県や広島県のチームも参加し、大会に出場した選手の中からパラリンピック代表が出るようになる。

大会が始まった当初、その名称は「久留米りんどうライオンズクラブ杯」だった。しかし規模が大きくなるにつれ自治体や企業からの協力が増え、地域に根ざした大会に成長したことから、クラブは「りんどう杯」に名前を変更する。このまま大会が大きくなれば、いつの日かクラブの手を離れて他の機関へ移管する日が来るかもしれない、という考えもあった。ちなみに「りんどう」は久留米藩主有馬家が用いた家紋の一つに由来し、市民が親しみを抱くシンボルだ。大会はその後もクラブ主催で継続。2005年からは久留米市を中心にした筑後地方の女性会員で結成された、ちくご菜の花ライオンズクラブ(室園矢恵会長/58人)も主催者として運営に加わって、共に大会をもり立てている。

この大会を市内の中学生が観戦するようになったのは、第1回から7回まで出場した久留米のチームが後援企業の事情で解散したのがきっかけだった。ライオンズとして、地元のチーム抜きでも大会を続けるべきかどうか、クラブで議論した末に生まれたのが、中学生に試合を観戦してもらい、大会に青少年育成という目的を加えるアイデアだった。これに市教育委員会が全面的に賛同し、実現することになる。

「中学生の皆さんは試合を見て感じ、多くのことを学んでいます。毎年、感想文を集めて文集を作成する他、カメラ担当の生徒にはデジタルカメラを貸し出してゲームの模様を撮影してもらいます。また、選手と一緒にゲームを体験する時間も設けています」(藤岡会長)

中学生が選手たちの姿を活写した写真は市役所などで展示した後、翌年の大会会場にも展示して、映っている選手に持ち帰ってもらう。出場チームの対戦の合間に行われる中学生体験交流試合は、各校から数人ずつが参加。選手の指導を受けた後、学校対抗の形式で行われる。

体験交流試合に参加した中学生たちは、車いすの操作やシュートの難しさを実感する

選手たちのプレーに間近で接した中学生の感想(一部抜粋)。
「どの選手も腕の筋肉がすごかったので、びっくりしました。そういうところを写真に収めるのはとても難しいです。(略)車いすバスケットを見て、スポーツには不自由など関係なく、みんなが楽しく出来ればいいと思いました」
「車いすをこいでいると、腕がだるくなってきました。選手は普通にしていたのにどうしてだろうと思いました。(略)車いすバスケットボール選手のたくさんの苦労や努力、そして、プレーをしていく中での大変さを体験しました。今日がんばった以上に、普段のバスケットボールもがんばろう!」
「腕の力だけであんなに遠くに、そして正確にシュートを打っていたのですごいと思いました。(略)車いすが倒れても誰も助けようとせずに自分で起こさせていたところが、身体的障害のある人ではなく一人のプレーヤーとして扱われているように見えました。そこがいいなと思いました」
「車いすバスケを見て、一番強く感じたことは『仲間とのつながり』です。敵は敵でも、車いすバスケをしている仲間としてのつながりやプレー中の励まし合い、応援など、たくさんのつながりがないとプレーが成り立たないことに気付きました」

28年ぶりに出場した地元チームへ、大会を主催する2クラブが寄贈した競技用車いす

クラブは他にも、選手への応援として小学生によさこい踊りを披露してもらったり、ゲームの進行をサポートするオフィシャルの役割を市内の高校のバスケットボール部員に務めてもらったりするなど、大会の中で地域の青少年が活躍する場を用意している。

「青少年育成という大きな目的があるのはもちろんですが、多くの人に試合を見てほしいという思いがあります。一般市民の観戦はまだまだ少ないのが現状です。小学生が出演すれば保護者の方々が会場に見に来てくれる。それによって少しでも多くの人に車いすバスケットボールの魅力を知ってもらえたらいいと思っています」(藤岡会長)

数ある車いすバスケットボールの大会の中でも、選手たちがりんどう杯を楽しみにしている理由は、中学生を始めとする観客の数だけではない。大会初日の夜に開催する交流会もその一つ。毎年参加してすっかり顔なじみになっている選手も多く、会場のあちこちで各チームの選手とライオンズ・メンバー、大会関係者の交歓が繰り広げられる。

大会の感想文集に寄せられた、選手からのメッセージ(一部抜粋)。
「りんどう杯は他の大会と違いたくさんの学生の応援もあり、楽しく参加をさせていただいています。今回の大会を通して課題もたくさん見つかりました。来年はチームの成長を見せられたらと思っています」
「今回も昨年の模様の写真が掲示されていて前回を振り返ることが出来、また来年拝見出来るのが楽しみです。夜にはレセプションも開催していただき、選手同士のコミュニケーションはもとよりライオンズクラブや審判団の方々と触れ合うことが出来、大変有意義な一時でした」
「りんどう杯に参加して思ったことはやっぱりバスケットは面白い。こんなに楽しく、快適にバスケットが出来る環境を作ってくださったライオンズクラブさんに感謝しています」

2018年に35回目を迎えた大会は「西日本大会」として開催し、山口、島根、広島、鳥取各県のチームを含む16チームが出場した。第35回の節目と、長く会場として使用してきた久留米総合体育館が、バスケットボール・コート3面、観客席3000人収容のメインアリーナを持つ「久留米アリーナ」に生まれ変わったのを記念してのことだった。この大会ではもう一つ、久留米りんどうライオンズクラブのメンバーを感激させるうれしい出来事があった。長く不在だった地元・久留米のチームとして、桜花台クラブが出場したのだ。久留米りんどう、ちくご菜の花両ライオンズクラブは、チーム・カラーのピンクのフレームの競技用車いすを寄贈して、久々に登場した地元チームを激励した。

新型コロナウイルス感染症の猛威に見舞われた2020年、第37回りんどう杯車いすバスケットボール九州大会は1年延期となった。そして今年2021年も、選手や関係者、観客の安心・安全を第一に考え、クラブは再度の延期を決めた。選手たちはコロナ禍が収束して再びりんどう杯が開催される日を待ち望んでいることだろう。来年こそは、各チームの全力プレーが見られるに違いない。

2021.05更新(取材/河村智子 写真提供/隈充寛<久留米りんどうライオンズクラブ>)

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