歴史「もはや戦後ではない」から
こぼれた人々に寄り添う

「もはや戦後ではない」からこぼれた人々に寄り添う
富山県・高岡古城LCが集団就職の女子従業員のために行った「声のふるさと帰り」

1952年3月に東京ライオンズクラブが誕生してから10年足らずのうちに、ライオンズクラブは爆発的に増加。そして数々の奉仕が、地方の小さな村から、国の外にまで飛び出して行われた。数字で見ると1958年に100クラブ、会員数は5,000人を超えたが、その翌年には倍増、200クラブ1万人に及んでいる。日本のライオンズクラブの奉仕活動第1号は、東京ライオンズクラブが結成初年度に行った赤い羽根運動への1万円の寄付で、この年の活動は計2件、総額4万円。それが1959年度には、1,245件4,264万円にもなった。

1950年代に実施された(あるいはこの時期に始まった)日本のライオンズ史に残る代表的な奉仕活動については、ウェブマガジン2月号で「リッチランドの壺」を、3月号で「インド救ライ」を紹介した。今回は、一つひとつは後の世に語り継がれるほど特徴的でも大規模でもないが、時代のニーズに応えて日本各地で行われた活動をご紹介しよう。

第2次世界大戦後の連合国軍による日本占領が終了したのは1952年4月、東京ライオンズクラブが誕生した翌月のこと。この年、ラジオの民間放送が復活。テレビ放送は翌53年に始まり、街頭テレビに人々が群がった。59年に皇太子殿下と正田美智子さん(現在の天皇・皇后両陛下)のご結婚が中継された頃には、テレビの値段はぐっと下がり、購入する家庭も増えた。ライオンズクラブでも孤児院や母子寮などへのテレビの寄贈が増え、坊主頭やおかっぱ頭の子どもたちが目を輝かせてテレビを囲んだ。

当時、こうした施設へ寄贈されたものの中に、「会員から集められた古着」がよく出てくる。一般家庭でも「おさがり」を着るのは当たり前だったのだ。他には書籍(古書を含む)、文具や遊具、オルガンなど。季節ものでは、多くのクラブが地元の施設へクリスマスケーキをプレゼントした。1950年代にはもう普通の家庭でクリスマスを祝いケーキを食べていたようだ。品物の贈呈以外にも、(恐らく費用を用意出来なかったために)中学校の修学旅行に参加出来なかった福祉施設や要援護家庭の生徒たちを、見学旅行へ連れていくこともあった。

北海道・札幌エルムLCは円山母子寮へテープレコーダーを寄贈

1950年代には中学校を卒業と同時に就職する子も珍しくはなかった。日本各地のライオンズは、中学卒業後孤児院を出て就職する子どもたちのために激励会を開いたり、スーツケースや常備薬などを贈っている。また親元を離れ集団就職した若者たちのためには、電話機を供えた会場を設け、ふるさとの親と電話で話をする機会を提供する「声の帰郷」といった活動も実施した。小学校や中学校に通いながら新聞配達をして家計を支える子どもも非常に多かったようだ。福岡ライオンズクラブが市内の新聞配達少年1,000人をサーカスに招待したとか、浜松ライオンズクラブが同500人を娯楽施設にバスで招待したといった記録を始め、多くのクラブが数十人から数百人単位の地元の新聞少年に運動靴や手袋を贈っている。ブラジルに移民として渡航する少年たちに支度金を贈呈という報告もある。裕福ではなくとも、自立して生きようとする子どもたちの強さが伝わってくる。

この頃、国民の所得は増え、暮らしは豊かになって、1956年の経済白書に記述された「もはや戦後ではない」という言葉が流行語にもなったが、そうした恩恵にあやかれない人々もまだまだいた。

例えば広島県・尾道でライオンズクラブが船上生活をする子どもの就学支援に踏み切った際の記録がある。当時尾道には、陸に家が無く原動機付き木造船で暮らし漁でわずかな日銭を稼ぐ家族群があった。1955年の夏、こうした家の子どもたちがいなくなり大騒ぎになった。じきによその家の納屋や屋根裏で見つかるのだが、子どもたちは数日だけ通った学校の楽しさが忘れられず、親と離れてまで陸に残ろうとしていたのだ。経済的な苦しさから子どもの就学を渋る親を先生たちが一人ひとり説得し、なんと5年の歳月を掛けて全ての子どもが学校に通えるようになった。市の補助で設けられた児童寮には110人が収容された。が、次の試練が訪れる。児童数の増加により、市の補助金が使い尽くされてしまったのだ。翌年入学予定者30人中、自費で賄えるのはわずか4人。このままでは残りの児童は船に戻ることになる。事情を知った尾道ライオンズクラブが立ち上がった。まず率先して新入学児童のために必要な3万円を負担。その上で各方面に協力を呼び掛け、12万円を集めた。当面の危機は打開され、最終的には公費負担にするよう教育委員会に要請が行われた。

福岡県・直方LCは鞍手町の無灯火地区7戸に電灯を設置

北海道・釧路ライオンズクラブは1958年、動物性たんぱく質が著しく不足している開拓村の人々のために乳を出すヤギ10頭と、古着や雑誌を贈った。道路も通っていない、郵便も届かないほどの場所だ。この活動が北海道新聞に取り上げられると大きな反響を呼び、道庁が道路建設資金として2000万円を拠出することになった。道が出来れば農産物を送り出すことも出来る。支援を受けた村民は、1959年に伊勢湾台風が発生した際には貧しい中から400円の募金と、豆類40kgを被災地へ贈ったという。「ライオンズの愛の火が燃え移ることを教えられた」とは、当時の釧路ライオンズクラブ・メンバー。

ウェブマガジン2月号に掲載した「歴史:リッチランドの壺」に登場する青森バプテスト教会の豊原敏郎牧師は、この活動が縁で結成された青森ライオンズクラブの会員となり、次のようなことを語っている。青森には「まいね」という方言がある。「私はだめだ」という時は「わきゃまいねじゃ」となる。引き上げる者がいなければ「わきゃまいねじゃ」と叫んで転落してしまうだろうその人の、転落の寸前に親しく話を聞き肩を並べて歩く。同じ社会の機会に恵まれなかった友への実のある援助こそが、ライオンズの仕事だと。

日本にライオンズクラブが出来てから瞬く間に広がっていったのは、あちらこちらから上がる「わきゃまいねじゃ」という叫びに、あれもこれも助けようと、力の限り手を差し伸べ続けた結果かもしれない。

2018.04更新(文/柳瀬祐子)