歴史日印にかける橋
インド救ライ

日印にかける橋インド救ライ
患者の手を取り体に触れて確かめる宮崎博士。そうした彼の診療態度が患者の信頼を集めた

1950年代の終わり頃、世界には1,000万人を超えるハンセン病患者がおり、その4分の1がインドの患者だと言われていた。このハンセン病に悩むインドのために働くことを熱望した一人の日本人医師と、彼の活動を全面的にバックアップしたライオンズ。両者の運命的な出会いによってスタートしたインド救ライ事業は、日印両国政府を巻き込み20余年にわたり実施される大きな事業へと育っていく。

インド救ライ事業を産む一粒の種となったのが、ハンセン病専門医の宮崎松記博士だ。彼は1958年、熊本県にあるハンセン病療養施設菊池恵楓園の園長を59歳で退官し、残りの人生をインドのハンセン病患者のために費やしたいと強く願っていた。博士の思いがライオンズとつながるのは1959年。宮崎博士の親友の医師が、医師会会議に出席するために上京。滞在したホテルのレストランで、後輩である同ホテル常務の豊田治助(東京ライオンズクラブ会員)と朝食を共にし、宮崎博士のハンセン病治療への情熱について語った。豊田は強く引かれ「何とか博士の夢を実現したい」と考えていたところ、偶然にも同じホテルに日本ライオンズ草創期からの中心人物である医師の原勝巳(岡山ライオンズクラブ会員)と、当時の駐インド大使が居合わせた。4人の話し合いにより、たった一人の医師の夢が一気に現実味を帯びる。大使は既に別の人から宮崎博士について聞き及んでいて、「日本政府からの派遣よりも、政治色の無い民間の奉仕団体による活動の方がインド政府は受け入れやすいだろう」という考えがあった。まさにライオンズの出番だった。その年の5月に開かれた日本ライオンズの年次大会で、宮崎博士への支援が緊急討議された。この日全国の122クラブから集結した3,000人のメンバーは、インドのハンセン病事情調査のために博士を派遣することを割れんばかりの拍手をもって決定。たちどころに62万円の募金が集まった。都市銀行の大卒初任給が15,000円の時代だ。彼らの武者震いをするような使命感が伝わってくる。

それから7カ月後の12月、宮崎博士は最初の現地調査のためにインドへ渡った。ライオンズが集めた派遣費は100万円になり、半年間にわたる旅を支えた。行く先々ではインド各地のライオンズクラブがホテル代をもってくれたり、インド政府が移動費を負担してくれたりもした。博士は精力的に調査を行い、11項目にわたる詳細な報告書をまとめた。滞在期間も終わりに近い頃、インドのネール首相と会見し調査結果を報告すると、首相から直接、インドのライ対策のための協力を要請されたのだった。

翌年博士が再渡印し4カ月の追加調査を実施した時には、現地の人々から病院の建設を懇願されるほど、宮崎博士の名は知れ渡っていた。海外での専門病院建設となれば莫大な資金が必要だ。日本ライオンズは大々的なインド救ライ募金活動に取り組むことを決議。マスコミに働き掛けると毎日新聞とNHKがインド救ライ・キャンペーンを展開、日本キリスト教協会、全日本仏教会、医療関係団体など日本国中のさまざまな組織が支援に乗り出し、広く国民にも浸透していく。ついに62年12月、インド救ライ事業の運営母体となる、財団法人アジア救ライ協会が誕生した。

長い列を作り診療の順番を待つ患者たち。何日も歩いてやってくる人もいる

インドでの活動拠点となる施設、アジア救ライ協会インド・センター(JALMA)の建設が始まった。10万坪の敷地に、病棟、炊事棟、自家発電所、給水塔、寮などを含む850坪の複合施設だ。場所はウッタル・プラデシュ州の古都アグラで、後に世界遺産に登録される白亜の墓廟タージ・マハルからわずか2キロの距離にある。1967年1月に落成式が行われ、治療棟の壁には「この治療棟は日本地区における国際ライオンズ協会が寄贈したものである 1967年1月30日」と日・英・印それぞれの文字で書かれたプレートがはめ込まれた。

病院の建設中にも、宮崎博士を筆頭とする医師団の移動診療が行われていた。毎週水、木曜日に診療を行うガタンプールは、ベースキャンプとなるアグラからは300キロ離れていて、ガタボコ道をジープで8時間走るのだが、よく途中で車が故障し最寄りの村まで10~20キロを歩いて助けを求めたという。早朝6時の診療開始時には、既に500人もの患者が待っている。医師、看護師たちは1日に1,000~1,500人を診察し、夜はろうそくの火の下でカルテを書くのであった。

1969年、医療器材や患者収容の用意が整い、JALMAが始動した。その事業には大別して、治療、研究、教育、リハビリテーションの四つがある。教育においては医療従事者の訓練だけでなく、入院患者たちに正しいハンセン病の知識を伝えることにも努めた。彼らが戻った村でもそれが広まることを願ったのだ。読み書きが出来ない人には識字教育も行われた。患者間の宗教やカーストの違いによるいさかいなど、日本では思いもよらない問題も浮上したが、センターの中では平等がルールだった。

アジア救ライ協会インド・センター(JALMA)での巡回診療

センターの運営が軌道に乗り始めた1972年、突然の不幸が降りかかる。センターの最高責任者だった宮崎松記博士が、ニューデリー郊外で飛行機事故に遭遇、命を落としたのである。博士はインド救ライに取り組むに当たり、熊本の家を処分し夫人と共にインドへ移住、「インドの土になりたい」と口癖のように言っていた。まさに救ライに捧げた72年の生涯である。関係者の誰もが絶望の底に突き落とされた。しかし深い悲しみの中、日本ライオンズは「インド救ライの火を消してはいけない」と立ち上がり、これまでにも増して支援活動を活発化させていった。

JALMAではこの激震に耐えて事業が継続された。そしてハンセン病の治療と研究において全インド的な機関となるまでに確固たる基盤を築き上げ、1976年にインド政府直轄のインド医学協議会に移管されることになった。宮崎博士の派遣を決めたライオンズクラブの年次大会から、目的を果たしたとしてJALMAの活動が終了した1981年までの20余年間で、日本で集められた寄付金8億円のうち、日本ライオンズからの拠金は9千万円に上った。日印両政府の補助を合わせると総額10億円、診療した患者は80万人以上に上る巨大な事業となった。

2018.03更新(文/柳瀬祐子)
 

*現代では「ライ病」という言い方は差別的な用例として避けられていますが、記事内では「インド救ライ事業」や「救ライ・センター」などの名称を当時のまま使用しています。