歴史献眼:ライオンは死して
目を残す

献眼:ライオンは死して目を残す
1977年、善光寺の門前で献眼登録運動を行う長野中央ライオンズクラブ

人々の視力を守る事業はライオンズクラブ国際協会にとって根幹を成すもので、世界中のクラブがさまざまな関連事業に取り組んでいる。日本でもそれは同様で、特に長きにわたり多くのクラブが取り組んできた活動の一つが、献眼推進事業だ。

日本で初めての角膜移植手術が行われたのは1957年。執刀医は岩手医科大学の今泉亀撤(きてつ)教授、手術を受けたのは地元岩手県立盲学校に通う14歳の少女だった。手術は見事成功。後に彼女は目が見えた時の喜びを、詩に詠んでいる。    

   「ほんとうにありがとう」   
 うれしかったのは十二才のとき   
 「角膜の手術をすれば   
 見えるようになる」といわれたこと   
 そして手術後   
 はじめて母の顔が見えたとき   
 涙がとまりませんでした   
 先生は「それはうれし涙だよ」と   
 病院の窓から一日中   
 盛岡の街なみを見ていました   
 それは何もかも光り輝いて   
 紅葉も、青い空も、   
 雲も、街ゆく人たちも、   
 すべてが新しい感動でした   
 眼をくださった方、先生、ほんとうにありがとうございました

現在ならば誰もが、本当に良かったね、と心からの祝福を贈るところだ。しかし、この時はそうはならなかった。当時の日本にはまだ移植を認める法律が無く、遺体からの眼球摘出は刑法の死体損壊罪に触れるのではないかと、物議を醸したのだ。今泉医師は自身が罪に問われることも覚悟の上で、手術に臨んでいた。これが発端となり、国会でその是非が審議された。そして58年、「角膜移植に関する法律」が公布され、日本における献眼及び移植手術が正式にスタートしたのである。

日本ライオンズは初期段階からその普及に尽力した。法律公布直前の57年、当時の原勝巳302地区ガバナーは岡山労災病院に死後の献眼を申し出て、実質的には日本で最初の献眼登録者となった。法律が施行された58年には、早くも福岡ライオンズクラブが献眼運動を開始。岡山県では61年に、医師でもあった三木行治県知事(岡山ライオンズクラブ)が、県内登録者第1号となったのを機に、県下で活発な推進活動が展開されていった。

第2回アイバンク運動推進協議会で、目が見えない状態を疑似体験するライオンズ・メンバー

角膜の提供者(ドナー)と移植を待つ患者との架け橋となる「アイバンク」も誕生する。日本初のアイバンクは63年、慶應義塾大学病院と順天堂大学病院に設立。同年中に大阪に、その翌年には岩手医大と、東京の読売光と愛の事業団に、アイバンク設立の認可が下りた。更に64年には東京の六つのライオンズクラブ(東京、東京丸の内、東京千代田、東京関東、東京神田、東京霞ケ関)によって、献眼運動の推進を目的としたライオンズ・アイバンク協会が発足。「虎は死して皮残し、ライオンは死して目を残す」という勇ましいスローガンを掲げて心血を注ぎ、ライオンズ主導によるアイバンクの結成が勢いを増していく。

60年代後半には同時発生的に、各地で献眼運動が盛り上がった。静岡県では64年、僧侶であるライオンズ・メンバー勧山弘(沼津ライオンズクラブ)が、檀家の通夜で初めて角膜摘出の場に立ち会う機会を得、この無償の愛の行為に深く感動し、献眼推進運動にのめり込む。家族からクラブ、市内全域へと献眼登録の協力者を広げ、67年に沼津で全国初のアイバンク登録者大会を、翌68年には静岡県内全クラブによるアイバンク運動推進協議会を開催。更に71年にはアイバンク全国大会に至った。

京都ウエスト ライオンズクラブは65年、啓発活動の一環として上映時間25分のPR映画を作成した。前年に発足した京都府立医大アイバンクの協力を得て、クラブ・メンバーの医師が手掛けた患者をモデルに、メンバーたちもスタッフとなり、エキストラとなって取り組んだ。この映画は各地のライオンズクラブや年次大会などで上映され、テレビのワイドショーでも紹介されて、アイバンク運動の促進に一役買った。

他にも横浜中央ライオンズクラブは68年に、同市のアイバンク開設以来初となる100人の集団献眼登録を実現。302-W5地区(徳島、高知、香川、愛媛、鳥取、岡山各県)では69年、年次大会の記念事業として香川県にアイバンクを開設した。

静岡県・小山ライオンズクラブによる献眼者百霊合同慰霊祭

ライオンズは、献眼の当事者に寄り添う役割も担ってきた。例えば次のようなものだ。いつでも、たとえ夜中でも献眼者が出たという連絡を受けられるようにしておき、連絡があったら地元のアイバンクへ伝える。アイバンクが提携病院へ摘出医の派遣を要請すると、ライオンズが駅や高速のインターへ医師を迎えに行き、献眼者の家へ案内する。葬儀後の遺族へのケアとして、厚生労働大臣から角膜提供者に贈られる感謝状や花を届け、故人の最後の善行をたたえる。献眼慰霊碑を建立し、毎年慰霊祭を行っているクラブも少なくない。

少女が詩に詠んだ見えることの喜びを一人でも多くの人に届けることが、ライオンズクラブの目標であり原動力だった。そうして半世紀以上にわたって献眼の啓発・推進に力を注ぎ、大きな役割を担ってきた。しかし厚生労働省の資料によると、移植手術を待っている人が平成28年11月末現在でまだ2,030人もいる。待機患者をゼロにするために、そしてそれを維持するために、ライオンズの献眼事業の歴史は続いていく。

2018.06更新(文/柳瀬祐子)