歴史 村上薫:
アジア初の国際会長

村上薫:アジア初の国際会長
1981年6月、アリゾナ州フェニックスで開かれた第64回ライオンズクラブ国際大会で就任した村上薫第65代国際会長

「私、村上薫はここに、ライオンズクラブ国際協会会長の職を受けるに当たり、国際協会会則および付則を堅持し、この職と共に私に与えられた信頼を敬い、かつ守ることを約束します。私は、我が国際協会が更に大きな業績と成果をもたらすよう、全力を挙げて努めます」
1981年6月19日、アリゾナ州フェニックスで開かれた第64回ライオンズクラブ国際大会で、日本人として、東洋人として、そして有色人種として初となる、世界最大の奉仕団体・ライオンズクラブ国際協会の国際会長が誕生した。日本ライオンズにとって歴史的な一幕となっただけでなく、国際協会にとっても東洋思想を基盤とするリーダーを得てより広い世界へとつながる新たな扉が開かれた瞬間だった。

世界各国のメンバーの熱い視線の中心に勇み立つ村上新会長は、会長テーマ「みんなで築こう和の社会(People at Peace)」を掲げ、世界に平和の種をまかねばならぬと訴えた。
「水と空気と平和が無ければ生きてゆけない、という言葉があります。水と空気は神が与えてくれたもので無尽蔵にある。だが平和は人間のみが作り出すものであるにもかかわらず、こんなにも少ない。今なお人間同士が生命を奪い合っている。こんな馬鹿げたことがあるでしょうか。私は平和を求めている。自らが完全に平和を求める人間に成り切る、アットピースに成り切る。君も、彼も、我らもアットピースだ」

58年8月、来日したライオンズクラブ国際協会のロイ・キートン事務総長に随行する村上薫302W-5地区幹事。その手による随行記が『ライオン誌』1958年9月号に掲載されている

村上薫は、京都府亀岡市の清和源氏の流れをくむ教育者の家筋に生まれた。小学校では成績優秀、勝気な性格で、小学生ながら村の青年団の弁論大会に出場。京都師範学校では弁論部に所属し、数々の弁論大会で受賞した。戦中は小学校教師を務め、戦後は新聞社勤務から京都市教育課長に転身。50年には、連合国軍総司令部(GHQ)の推薦を受け戦後初の日米人事交流計画に参加し3カ月でアメリカ23都市を訪問。その折に初めてライオンズクラブの存在を知ることになる。帰国すると京都市に広報課の創設を提案して初代課長を務めるなど活躍の後、茶道裏千家淡交会に初代事務局長として招かれた。

村上が京都ライオンズクラブに入会したのは結成翌年の54年。しかしアメリカで見たクラブとの雰囲気の違いに戸惑い、入会から1年ほどはほとんど欠席に近い状態だったという。一計を案じたクラブが55年、彼を幹事に任命すると、期待に応えて手腕を発揮していく。日本にライオンズクラブが誕生してから3年目のことで、国際協会から届く資料は英文のままだった。村上はそれを自発的に翻訳し、自クラブだけでなく他クラブへも提供していった。そのうち協会から直々に「Mr. President, This is Your Year」という冊子の翻訳依頼が舞い込むと、タイトルを「会長必携」とし、1年掛かりで翻訳に取り組んだ。国際的な視点でライオンズクラブとは何たるかに触れていた村上は、持ち前の探求心と情熱を持ってのめり込んでいく。

インド・ニューデリーのライ診療所で奉仕を続ける地元ライオネスクラブの会長を表彰しピンを贈呈

60年に国際関係の研究でニューヨークのロングアイランド大学大学院に留学した際にはシカゴの国際協会を訪ね、ライオンズクラブの創設者メルビン・ジョーンズとの邂逅(かいこう)を得た。ライオンズの隆盛ぶりを熱く語り、生みの親への賛辞を惜しまない村上に、ジョーンズはこう告げる。
「いや、数だけが問題ではないのです。世界最大の数が皆人類の善意を代表する人たちであるということに大きな意義があるのです」
この言葉は村上の心に深く刻まれた。64年、302W-5地区(現335-C地区/滋賀県、京都府、奈良県)の地区ガバナーに選出。75年に国際理事になると、乞われるままに国内はもとより世界各国を飛び回り、その姿はライオニズムを説く「行動の人」と呼ばれた。78年に国際第3副会長に就任すると更に多忙を極めていく。

世界最大の奉仕団体のリーダーとして村上は、「国際人とは何か」を自問している。その結論は、「日本人に成り切る」ということだった。外国人に無いもの、東洋の思想を持つからこそ世界から必要とされるのだと。そして茶道に根差す「和」の心と、自身のテーマである「平和」を、世界中で説いていった。アメリカを主流とするライオンズと、当時急速な発展を遂げていた東洋のライオンズとの間の橋渡し役にもなった。訪問先では国王や大統領を始めとする指導者と懇談、数百回の講演をし、また世界各地の新聞やテレビを通じて一般社会にもライオンズクラブと平和について語り掛けた。国際会長としての1年間の移動距離は述べ123万km、地球32周半に及び、自宅で過ごしたのはわずか14日だった。睡眠時間すら満足に取れないほどの激務に体を心配する友人らには、「大丈夫。斃れて後已む(たおれてのちやむ=命ある限り力を尽くす)だ。歩けば歩くほどライオニズムが高揚するんだ」と、答えるのだった。

82年10月13日、療養先の静岡県・伊東の宿でライオン誌のインタビューを受ける村上前国際会長

任期中はドクターストップが掛かることを心配して病院へ行かず、任期満了後にようやく診てもらうと、直ちに入院、絶対安静となった。そして82年11月7日、晩秋の冷たい小雨が降る日、村上薫は64年の生涯を閉じた。献眼が最後の奉仕となった。ライオンズクラブ国際会長として集大成となるアメリカ・ジョージア州アトランタでの第65回国際大会を主宰してからわずか100日余りのことだった。

『ライオン誌』83年1月号の追悼特集の中に、10月13日にライオン誌日本語版編集長が療養先の静岡県伊東市に村上前会長を訪ね、国際会長としての思い出、これからのライオンズクラブの在り方、日本ライオンズの役割などを聞いたインタビュー記事が掲載されている。村上は、政治でも経済でも出来ないことを人類愛をもって行うボランティア・サービス・グループが今こそ求められていると、そして最高のメンバーを有するライオンズがそのリーダーになるべきで、日本ライオンズも自分たちの社会的責任を自覚し真にすばらしい奉仕活動に取り組んでほしいと、変わらぬ熱さで語った。無念にも最後のメッセージとなってしまったこの記事は、こんな言葉で締めくくられている。
「(これからは)日本各地を親しく回りまして、私の体験したこと、信じたことをメンバー一人ひとりに、10年掛かろうと15年掛かろうとお話しして回りたいと考えています。それが私を支持してくださった皆さんに対するご恩返しだと思っているわけですよ」

2020.11更新(文/柳瀬祐子)

むらかみ・かおる:1917年京都府生まれ。44年立命館大学法学部卒業。50年GHQ人事交流計画によりアメリカに派遣されて以来、生涯で200有余回、世界各国を訪問。茶道裏千家淡交会副理事長、南アフリカ共和国名誉領事、夕刊京都新聞社顧問など役職多数。53年京都ライオンズクラブ入会、64-65年度302-W5地区ガバナー、75~77年国際理事を務め、78年国際第3副会長に当選。81年、第65代国際会長に就任した。82年11月7日逝去。