歴史
宮崎松記:
救ライに捧げた生涯
1900~1972年
生涯を掛けて救ライに取り組んだ医師・宮崎松記は、1900年、熊本県八代市の網元・井上家の三男として生まれた。14歳の時、同市の開業医・宮崎家の養子となり、宮崎姓を名乗るようになった。後に夫人となる千代は宮崎家の長女である。中学校時代の担任は彼について「直情径行、やや強すぎる性格で、教師も時にやり込められるが、よく出来るまじめな生徒だ」と評している。その信じたままに行動する強い性格は、ライフワークとなる救ライにおいても貫かれた。
17歳で第五高等学校(熊本市)に入学した宮崎に、運命的な出会いが待っていた。当時熊本にはハンセン病患者が多く、日蓮宗総本山本妙寺の参道脇では、病気の後遺症で体が不自由になった患者たちが参詣者に慈悲を乞うていた。1890年、キリスト教布教のために来熊したハンナ・リデルは、こうした患者たちの世話をするためにハンセン病病院・回春院を開院。学校のすぐ裏にあった同院でハンセン病患者のため献身的に尽くすハンナの姿を見て、キリスト教徒でもあった宮崎は心を打たれ、ハンセン病医師となることを決意したのである。その決心を聞くと宮崎家一同は喜んで彼を祝福し、養母などは神に感謝しながら天に召されたという。ハンセン病への偏見がはびこる中で、こうした家族の反応は非常にまれな環境だったと言えるだろう。
京都大学医学部を卒業後大阪赤十字病院に勤めていた34年、宮崎に、ついにその機会が訪れた。熊本のハンセン病病院、九州療養所(後の国立療養所菊池恵楓園)の所長職を打診されたのだ。即答「承知」である。所長になると大ナタを振るった。出身校による派閥を無くすために首切りを断行。第2次世界大戦が始まると、軍隊内でハンセン病を発症した兵士が結核と同様に恩給を得られるよう法の改正を求め、戦後は病院に隣接していた軍用飛行場に目を付け、病院の拡張を進めた。ハンセン病患者を親に持つ子を一般校に通学させよという主張も、騒動を巻き起こした。厚生省の役人からは「先生、もう少し静かにしておってくれ」と言われたという。そして58年、四半世紀近く務めた恵楓園の所長を59歳で辞職した。
退職すると途端に周囲の人々が、「君の日本における任務は終わった。今度はハンセン病のために世界で活動すべきだ」と勧めた。日本医師会の元会長に相談すると、言下に「インドが良い」と言う。ネール首相が自国のハンセン病問題解決に熱心で、日本の協力を求めている、と。が、インドで救ライ活動を行うための資金を用意出来る組織はなかった。宮崎の熱意はムクムクと湧き上がるが、先立つものがない。
次なるステージへの重い扉を開く鍵となったのは、同窓生の木村潔博士だ。59年4月、東京で医師会が開かれた際に、滞在していたホテルの常務であり後輩の豊田治助(東京ライオンズクラブ会員)に、友人・宮崎松記の救ライに掛ける情熱を語った。豊田は、それこそ日本ライオンズが支援すべき事業だと直感。出来すぎた偶然だがこの時同じホテルに日本ライオンズ草創期の中心人物の一人で医師の原勝巳(岡山ライオンズクラブ会員)と、那須皓(しろし)駐インド大使が居合わせたことから、話はトントン拍子に進んだ。翌月には京都で開催された日本ライオンズの年次大会で宮崎への支援を決議。すぐに62万円の募金が集まり、この年の12月、インドのハンセン病事情調査へと旅立ったのである。
宮崎は半年を掛けて現地調査を行い、インド政府に請われて報告書を提出した。ネール首相は、救ライの先鞭を付けインド国民の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに薫陶を受けている。二人の面会は5分の予定が30分にも及んだ。インドでは既にイギリス、アメリカ、西ドイツなど西洋各国が救ライに取り組んでいたが、同じアジアの一員として日本には特に大きな期待が寄せられた。インドの篤志団体からはウッタル・プラデシュ州の古都アグラに、活動拠点を建てるための土地も提供された。世界中から観光客が訪れる白亜の霊廟タージ・マハルからわずか2kmの場所だ。
一方日本では62年にライオンズクラブ、キリスト教界、仏教界、医療関係団体等々により、支援母体となる財団法人アジア救ライ協会(Japan Leprosy Mission for Asia:JALMA)が結成された。NHKや毎日新聞などのマスコミもPRに乗り出した。歌舞伎のチャリティー公演に皇族方が出席され、婦人団体や日本各地の幼稚園から大学までが協力参加するなど、国民運動のような様相を呈してきた。65年、宮崎は熊本の家をたたみ、夫人と末娘を連れてインドに移住した。
待ちに待ったJALMAインド・センターが開所したのは1967年。礎石にはネール首相による「アジア救ライ協会インド・センターは、日本国民のインド国民に対する善意と友愛によって建設された」という言葉が刻まれた。センターの目的は治療、研究、教育訓練、リハビリテーションの四つ。患者の治療という対処療法だけでなく、根絶に向け研究や人材育成、患者の社会復帰までを視野に入れたものだ。各国の専門家は「これは日本だけでなく、世界共同利用のライ研究所に発展させるべきだ」と絶賛した。宮崎は院長になった。
インドのハンセン病患者数は政府発表によると250万人。当然収容は不可能なので、政府は医者が患者のいる所へ出かけて治療する「院外活動」に重点を置いた。JALMAもこれに沿い、センター建設中から医療班が車で巡回診療を行っていた。巡回地の一つガタンプールはアグラから300kmの位置にあり、州内でも特に患者が多いと言われる村だ。火曜日の夜にアグラを出発して移動し、水曜・木曜に診療を行う。JALMAのうわさを聞いて患者が集まってくる。1000km以上もの道のりを徒歩で何日も掛け、狩りをして食料を調達しながら来る人もいる。日本人医師や看護師らと共に朝6時から診療に当たり、日中の気温が50度にもなる中、2日間で2000~2500人を診た。ある日本人商社員に「インドまで来てこんな仕事をするのは、先生、老いの一徹ですね」と言われた宮崎は、「とんでもない、若気の至りです」と答えたという。
その訃報はあまりにも突然だった。72年6月14日、乗っていた航空機の墜落事故により宮崎松記は72歳の生涯を閉じた。日頃から「インドに骨をうずめたい」と言っていた通り、遺灰は聖なるガンジス川に流された。しかし救ライに掛ける魂は、宮崎を知る人々の中で生き続けた。救ライの灯を絶やすまじと、JALMAは支援者と共に活動を続けた。その成果が高く評価され、JALMAは76年、州ではなくインド政府直轄の組織として移管。名称は「中央JALMAライ研究機関」とされた。「JALMA」の名が残ったのだ。
「日本は過去に外国から人道的な奉仕を受けた。今度は日本が経験と知識を生かしてアジア地域に奉仕する番だ」とインド救ライに命を燃やした宮崎松記は、「東洋のシュバイツアー」と呼ばれている。
2019.06更新(文/柳瀬祐子)
*現代では「ライ病」という言い方は差別的な用例として避けられていますが、記事内では「インド救ライ事業」や「救ライ・センター」などの名称を当時のまま使用しています。
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