歴史障害者の社会復帰を目指して
電動義手開発

障害者の社会復帰を目指して 電動義手開発
ライオンズの支援で開発された電動義手の装着訓練を行うサリドマイド児の吉森こずえちゃんと、開発者の野島元雄徳島大学医学部助教授

1965年4月、京都市で開かれた日本ライオンズ302-W5地区(京都府、滋賀県、奈良県)の年次大会で、65年度の奉仕活動のテーマとして「身体障害者に社会復帰を」が採択された。そのきっかけとなったのは64年に京都紫明ライオンズクラブで持ち上がった、「京都府下に12人いるサリドマイド児たちに、精巧な義手を作ってあげられないものか」という提案だ。クラブで話し合いと実態調査を進めたところ、自分たちのクラブが単独で扱うには問題が大きすぎるため地区の活動として検討してもらおうということになり、地区大会に上程されたのだった。

サリドマイドとはドイツで開発された睡眠薬で、これを妊娠初期に服用すると生まれた子どもに四肢欠損などの障害が現れるという薬害事件を引き起こした。日本では1962年に薬品の製造・販売が停止されたが、それまでに死亡児を含め1200人の「サリドマイド児」と呼ばれる障害のある子どもが生まれた。

こずえちゃんはサリドマイドの影響で生まれつき両手が無かった

302-W5地区の大会に議題が提案された時点では、京都紫明ライオンズクラブの調査により次のことが分かっていた。
・西ドイツでは既にサリドマイド児用の動力義手が開発されている
・日本の技術水準は、同様の義手を開発する能力がある
・事故による手足欠損者など、動力義手があれば社会復帰可能な人も多い
そこで地区内に特別委員会が設置され、専門家の意見を聞いて更なる検討が重ねられた。その結果、リハビリテーション医学と義手研究のために、医師である徳島大学医学部の野島元雄助教授を半年間西ドイツへ派遣すること、その費用250万円を捻出するために同地区内メンバー約3300人が1000円ずつ出し合うことが決まった。

徳島大学が行った義肢使用に関する調査によると、当時、下肢切断者の99%が義足を使用し日常の利便に役立てていたのに対し、義手を使用している上肢切断者は77%にとどまっていた。しかもそのうちの70%は装飾用に過ぎず、能動的に使用する場合も主に腕の動きを伴う作業用で、手仕事に役立つようなものではなかった。この差はもちろん足と手の機能の違いによるところが大きいが、社会復帰に役立つ義肢の在り方について深い示唆を与えるものでもあった。

1966年9月に野島助教授がドイツから帰国すると、徳島大学では早速、動力義肢に関する人間工学研究会が組織された。学部を超えて研究者たちが集い、更に義手の試作には京都の立石電機株式会社の協力も得られることになった。同社社長はロータリークラブの会員であり、後に随筆の中でこの時のことを次のように綴っている。
「ビジネス第一に考えたらとても算盤には合わない。しかし私は即座にこの依頼を受けることにした。その理由の一つは<愛と善意>のライオンズの要請であり、その要請を受けた私が<奉仕の理想>のロータリアンだからである」

研究チームが最初に決定する必要があったのは、義手の動力を何にするかだった。この選択を誤れば、今後の研究において時間と労力と費用に膨大な無駄を生じることになる。野島助教授がドイツから持ち帰った義手は圧縮炭酸ガス式だったが、模倣を廃し最善の策を模索した結果、日本では電気を使うことになった。給源の手近さ、動きの制御の容易さ、更に小型軽量化だけでなく電子技術の発展に伴い、電気には大きな将来性が期待出来た。試作第1号機は1967年11月に完成。翌68年2月には更に改良を重ねた第2号機が、同3月に3号機が完成した。同6月までに302-W5地区からサリドマイド児3人と上肢欠損の成人3人へ、この電動義手が贈呈された。

仕事中の事故により両腕を失った男性。電動義手を得て職場復帰した

義手を装着することになった一人に、サリドマイド児の吉森こずえちゃん(8歳)がいた。こずえちゃんが義手を自分の手とするために訓練を続ける様子と、義手開発における科学者たちの努力は、1968年にNHKのテレビ番組「あすをひらく」で「手ができた」のタイトルで紹介された。更に翌69年には同じくNHKテレビの特別番組「この幼きもの」で、義手の訓練を終えて徳島大学付属病院を退院し、小学校に通うこずえちゃんの記録が放映され、多くの人々に感銘を与えた。ただ、こずえちゃんがこの義手を使ったのはわずか1年ほどだった。成長期の子どもにはすぐに装置が小さくなってしまったのだ。しかしライオンズを始め義手開発関係者とこずえちゃんとの交流は続き、81年には京都市内のライオンズクラブの支援により、彼女はヨーロッパへサリドマイド障害者対策視察旅行に参加することになる。その体験記が『ライオン誌』に寄せられている。

国際障害者年の1981年、山口県・光ライオンズクラブの例会にゲストとして招待された吉森こずえさん

テレビ番組によりサリドマイド禍や電動義手開発が世間に認知されるようになっただけでなく、医学会などでも完成した義手についての発表が行われ、専門家たちにもその成果が認められるようになっていた。そこで1968年5月、徳島大学と立石電機、そしてライオンズクラブは、3年間にわたる電動義手研究の成果をより多くの人にもたらすために、実用段階に進めることを希望する陳述書を厚生大臣へ提出。国庫から特別研究費が交付されることが決定した。研究陣は全国規模に拡大、国による特別研究の主任研究者には、義肢開発の初期から中心的役割を担ってきた徳島大学医学部整形外科の山田憲吾教授が指名された。そして国庫予算が付くようになったのを機に、ライオンズクラブによる開発支援は終止符を打ったのだった。

日本における動力義肢の研究は飛躍的に進み、1970年にドイツで開かれた整形外科学会では、「電気式動力義肢の開発は日本に任せよう」とまで言われるほどになる。主任研究者となった山田教授は、ライオンズの貢献をこう記述している。
「ライオンズはついに国を動かし大型研究費を発動させることに端緒を与えただけでなく、重度上肢欠損児に義手を無償交付し社会復帰に役立てるという福祉行政の発展にも先鞭を付けました」
と同時に、諸外国に引けを取らないレベルにまで到達した義手研究についてこう俯瞰する。
「私たちの研究は、5本の指が自由に動くこと、頭の中で考えていることがそのまま手の動きとなること。そういう義手に向かって進んでいます。もちろん一挙にそういう手が完成するわけではありません。科学は一歩一歩の積み重ねの上に進歩していくのです」

2018.11更新(文/柳瀬祐子)