獅子吼
ひまわりの記憶
松本杜史子(大阪マーガレットLC)

2011年8月、大阪マーガレット ライオンズクラブは東日本大震災発災から5カ月目の被災地、宮城県気仙沼市を訪問しました。津波で打ち上げられた大きな漁船の傍らには、基礎だけを残した住居跡が広がっていました。そこには、自然に芽吹いた鮮やかな黄色いひまわりが真夏の風に揺れていました。神様へのお供えのような、「波はもうここまで来ないでね」と海に向かって訴えているようなひまわりでした。
現地でお世話になったバスガイドの菅原さんは、ご家族を亡くされた被災者の一人でした。
「震災の後しばらくは、いろんな人たちがやって来るのがとても嫌でした。見物に来ているようで、つらく悲しい日々でした。でも今は皆さんに来てほしい、この現状を見て、伝えて、忘れないでほしいのです」と話しながら、涙を流しました。
気仙沼で造り酒屋を営んでいた菅原さんのご主人は、作業場の2階に上がる階段の途中で津波に流されました。奥様の心には、上から手を伸ばしてつかみかけた指先の感触が、いつまでも重く残りました。その感触を勇気に変え、息子さんと共に立派にお店を復興させました。両親とご主人、店舗、作業場を一瞬で無くした菅原さんは、周りの被災者の方々に気持ちを寄せて支援を続け、「語り部」として東日本大震災を語り継いでいます。
2016年5月から、熊本地震の被災地支援のために急きょ編成された女性メンバー中心のチームで、益城(ましき)町の広域避難所や仮設住宅を訪問しました。避難所に長期間居住する、特に高齢者の方々の血流障害を防ぐため、ふくらはぎマッサージをさせていただきました。ほんの少し講習を受けただけの全くの素人のグループでしたが、お年寄りの足腰、背中をさすりながら、つらく悲しい体験をいっぱいお聞きしました。
一人のおばあちゃんが、突然私に言いました。
「あんさんは神さんのごつば見えますたい~、ありがとう、ありがとうございます」
「遠い、遠い大阪からきんさった、ありがとうございます」
何もしていない、ただ足をさすっておしゃべりしただけの私に、手を合わせて涙ながらに感謝の言葉を何度も繰り返しました。熊本地震ふれあい支援活動は7回続きましたが、帰り際には毎回、機内の窓から見える熊本の明かりに後ろ髪を引かれる思いがしました。
昨年は能登半島地震発生から半年後の被災地を訪れました。倒れたビルや地面に落ちた瓦屋根はそのままで、手付かずの建物は一年半が経った今も残っています。地形の変わった海岸線や船着き場は地震の威力を物語り、能登半島での災害支援は今も続いています。地震後の大火災で焼け野原となった輪島朝市跡には曲がった鉄骨や黒焦げの車が残り、各店舗跡にはきれいな柄の瀬戸物が転がっていました。朝市の楽しくにぎやかな声が聞こえてきそうで、しばらくの間立ちすくみました。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。
「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ……
私はこの詩がボランティア活動の原点だと思います。大事なのは「行って」という言葉が入っていることです。
被災して悲しい思いをした方、耐えて我慢し続ける方々には、やがて忘れ去られていくのが一番つらいことだと思います。非力で専門家ではない私たちですが、現地に赴き現状を見て記憶に残し、被災者の方々に会って話を聞いて、一緒に泣いて笑って、少しの間でも寄り添う支援が出来ました。
被災地支援の方法はさまざまです。全てに通じるのは、悲惨な自然災害のことを忘れずに、被災地のこと、被災者の方々のことを思い、復興を祈り、自然災害の脅威を語り継ぐことだと思います。
ライオンズクラブを通して災害支援活動に参加し、困っている方々の手助けをする貴重な経験が出来ることをうれしく思います。被災者の方々の感謝の言葉は、何倍にも大きくなって私の心に残ります。
気仙沼の海に向かって立つひまわりと、熊本空港の涙越しの夜景、輪島朝市の焼け残った食器の記憶は私の心に深く残り、今後の被災地支援活動の原動力ともなる財産になりました。
2025.07更新(335-B地区アラートコーディネーター/松本杜史子<大阪マーガレット ライオンズクラブ>)