歴史 日本・フィリピン
合同医療奉仕活動の絆

日本・フィリピン合同医療奉仕活動の絆
病院で抜糸するお金がなく、ライオンズの奉仕団が来るまで我慢していたという少年。傷は炎症を起こしていた→『ライオン誌』2010年5月号

毎年2月半ば、334-E地区(長野県)のライオンズ会員とボランティアの医師、看護師など、百数十人規模の医療奉仕団体がフィリピンを訪れる。経済的な理由から医療を受けることが難しい貧困世帯を対象に、334-E地区とフィリピンのライオンズが無料で実施する「日本・フィリピン合同医療奉仕活動」のためだ。本来日本人医師はフィリピンの医師免許を持っていないので医療行為は出来ないのだが、この活動に厚い信頼を置く同国保健省の許可を得て、現地医師の手伝いという形で医療活動が認められている。現地では2日間にわたり数カ所の会場で、内科、歯科、眼科の診療が行われ、多い年には延べ1万人以上が受診する。その規模においても、半世紀に近い継続性においても、日本のライオンズを代表する国際協力事業の一つである。

82年、第7回医療奉仕。この年は州立病院1カ所と、小学校3校が会場となった。フィリピンの小学生の体位向上を調査する目的もあった

この医療奉仕は1976年、長野県・飯田ライオンズクラブの奉仕事業として始まった。フィリピンは日本ライオンズの生みの親だ。第二次世界大戦時、フィリピンは日本軍の占領下に置かれ多くの人が犠牲となった。しかし終戦からわずか7年後の52年、フィリピンのライオンズは過去の恩讐(しゅう)を超えて、マニラ ライオンズクラブをスポンサーに日本で最初の東京ライオンズクラブを誕生させた。その後日本は高度経済成長の波に乗り目覚ましい復興を遂げたが、フィリピンでは多くの人々が貧困に苦しんでいた。彼らの助けになりたい。医療奉仕を計画した飯田ライオンズクラブの、感謝と贖(しょく)罪の思いがあった。

飯田ライオンズクラブから実施報告を受けた334-E地区はこの活動に強い感銘を受け、翌年から地区の事業として引き継いで続けていくことにした。ライオン誌79年4月号に掲載された第4回の報告記事を読むと、医師11人、看護師2人、薬剤師1人を含む一行56人が訪比、3班に分かれて2日間の診療を行う現在の原型が既に出来上がっている。医薬品や医療機器の他にも、長野県内の子どもたちから集められた文具等、計1.5トンの物資を寄贈した。この事業は地元の新聞にも掲載され、県民の理解が深まり善意の輪は広がりを見せていた。

第7回医療奉仕で、会場近くの村を訪れた日本のライオンズ・メンバー

その活動は、最初から順風満帆というわけにはいかなかった。医療奉仕の開始当初、フィリピンでは戦争の記憶から反日感情が強く、待てども患者が来てくれないという状態だった。無邪気に遊ぶ子どもたちが突然日本語で「バカヤロー」と叫ばれることもあった。国防省や州当局が、万が一の事態に備えて万全の警備体制を取り、ボディガードを付けてくれるほどだった。しかし2回、3回と繰り返す中で次第に信頼を得て、81年の第5回には診察希望者は7000~8000人にもなり、そのうち3107人を治療するまでになった。

歴史の波に翻弄(ほんろう)されながらも、医療奉仕は続いた。86年はマルコス大統領が失脚・亡命する引き金となった大統領選投票日の翌日、翌々日が実施日だった。現地の混乱により予定の会場が使えず、急きょ周辺の教会や民家を借りて行われた。91年6月には20世紀最大と言われるピナツボ火山が噴火。その8カ月後の92年2月は避難民キャンプでの診療を計画したが、残念ながら現地の都合で叶わず、キャンプへは援助物資の寄贈にとどまった。翌93年からは被災者再定住地で実施している。そして今年2月に予定されていた第45回医療奉仕は、新型コロナウイルス感染症の影響によりやむなく中止が決断された。長い歴史の中で初めてのことだ。

07年、第32回医療奉仕。日本から136人の会員・家族及び医療関係者が参加。4カ所で合計9154人を診察した

フィリピンの人々の信頼と各方面の協力を得て、ダイナミックに展開されるようになった日本・フィリピン合同医療奉仕活動だが、医師らは大きなジレンマも感じていた。日本でならば治療出来る虫歯も、年に1回の診療では抜かざるを得ない。先天的な染色体異常が疑われる子の治療は、ここでは不可能。1日でも長く親子が一緒に暮らすための生活指導しか出来ない。ある少年を診た時のこと。Tシャツをめくると、縫合糸が皮膚に食い込み炎症を起こしている大きな傷跡が現れた。付き添いの父親によると、盲腸の手術を受けたが病院で抜糸してもらうお金がないため、ライオンズの奉仕団が来るまで我慢していたのだという。急きょ机を集めて臨時のベッドを作り、少年を寝かせて抜糸をした。さながら野戦病院だ。それでも今回診ることが出来たのは治療が必要な人の何%ほどなのかと思う。そうしたもどかしさも、来年も、再来年もと続けてきた原動力の一つかもしれない。

そしてそれ以上に、この医療奉仕が顔の見える民間外交として果たしてきた役割の大きさを実感している。小さな赤ん坊の妹を診てもらい、ライオンズ会員の手を取り自分の額に当てた少女。通訳が「尊敬と感謝の気持ちの表現」だと説明してくれた。フィリピンの人たちがこの医療奉仕を頼みにしてくれている。奉仕団にボランティア・スタッフとして参加した日本の高校生たちも、多くを学んでいる。将来は医師になり、ライオンズのメンバーとしてまたフィリピンの医療奉仕に参加したいという子もいた。支援したつもりが相手からより多くのものを与えられたというのは、奉仕活動の中でよく耳にする言葉だ。戦争の苦しみを超えて日本にライオンズクラブを作ったフィリピンのライオンズ。医療奉仕を通じて感謝を示した日本のライオンズ。互いへのギフトは、回を重ねるごとに信頼と友愛となって絆を強めている。

2020.08更新(文/柳瀬祐子)