フォーカス 今や海外にも広がり始めた
ミニバレーの考案者

今や海外にも広がり始めたミニバレーの考案者

大樹町は北海道の東部にあり、東は太平洋、西は日高山脈に接し、中央部に広大な十勝平野が広がっています。海、山、そして十勝平野という自然に恵まれ、町は農業を中心に漁業、林業を基幹産業として発展してきました。また最近では「宇宙のまちづくり」を掲げ、航空や宇宙分野での実験や飛行試験を積極的に誘致しています。

大樹町の町技となっているミニバレーは、そんな大樹町発祥のスポーツで、もともとは町民のための冬のレクリエーションとして生まれました。それが徐々に各地へ広がり、今では毎年ジャパン・カップが開催されるなど、道内はもとより東北や関東、南の沖縄まで普及しています。更には海外にも広まり、最近ではロシアの関係者から国際組織を作ってほしいという要請を受け、こちらがあおられるような状況です。

ミニバレーが誕生したのは1972年ですが、当時私は大樹町教育委員会の職員として、ママさんバレーボール教室の指導をしていました。が、参加されていたお母さんたちは「ボールが当たると痛い」とか「突き指やけがが心配」と口々に言い、教室を重ねる度に一人減り二人減りと、参加者が少なくなっていきました。

どうしたらこの状況を打開出来るか悩んでいたある日、遊びに行った友人の家で、部屋に転がっていたビニール製のビーチボールが目に止まりました。「これなら当たっても痛くはないな。このボールを使ったらどうだろう」。そんな思いが頭をよぎりました。

早速、次のバレーボール教室の時に試してみたところ、「痛くない」どころか、ボールが顔に当たっては笑い、頭に当たっては笑い、と体育館はお母さんたちの笑顔と歓声に包まれました。しかも、ボールを思い切り打っても、当たり所によっては前に飛ばなかったり、意図せぬ変化をしたり……、それもまた「楽しい!」「面白い!」と感じる要素であることが分かりました。

そして、これを本格的に競技として取り入れることにしました。そのためにはルールから作らなければいけませんし、そもそも競技の名前も考えなければなりません。ボールはビーチボールを使うとして、他の用具は既成のもので、体育館にあるものを活用することにしました。目を付けたのがバドミントンのネットと支柱でした。バレーボールのコートはタテ18m×ヨコ9mですが、両サイドのアタック・ラインで3等分出来ることから、既成のコートとラインを活用し、タテ9m×ヨコ6mというコートを設定しました。

ルールは基本的にはバレーボールのものをベースにしましたが、実際にプレーをしながら、競技する人数は1チーム4人、得点は11点(最初の頃は15点)と、試行錯誤を重ねてオリジナルのスポーツとして完成させました。競技の名前は、コートが小さく、ネットは低く、競技者も少ないなど、通常のバレーボールと比べほぼ全てがミニなことから、「ミニバレー」と命名しました。

その後、私自身が企画を担当していた大樹町民スポーツ大会の公式競技の一つにミニバレーを入れ、普及を図りました。年齢や性別に関係なく、誰でも楽しめる競技で、当たっても痛くないし、ボールが面白いように変化する。しかも、コートが小さいため運動量がさほど多くならない、ネットが低いので容易にアタックが打てる、ボールがふわふわ飛ぶためラリーが続くなど、初心者でも楽しめる要素があり、当初考えていた以上に町民への浸透は早かったと思います。こうしてミニバレーは町民レクリエーションとして普及し、結果として町民の体力向上に結び付き、94年には大樹町の町技に指定されることになりました。

大樹町主催のとかちっこミニバレー大会や、大樹ライオンズクラブ杯子どもミニバレー大会など、子どもたちの大会もある

本来は冬場の運動不足解消のために考案したもので、当時は道内に普及とか、日本国内、ましてや海外への普及など、考えたこともありませんでした。それが78年、NHKテレビで大樹町のミニバレーが紹介されると、全国から問い合わせが殺到。照会してきたのは1都2府33県から84件、道内は176件に及び、私だけではなく教育委員会の職員はその対応に追われ、反響の大きさに驚いたものです。

更に85年9月に札幌市で開催された健康体力づくり運動推進全国大会で、ミニバレーを紹介するよう要請を受け、その半年前に設立された大樹町ミニバレー協会としてデモンストレーションを行いました。そして、これが契機となり、87年には十勝ミニバレー協会が、翌88年には北海道ミニバレー連絡協議会(現・北海道ミニバレー協会)が誕生しました。その後91年には、ジャパン・カップに参加した各都県の代表や道内各協会と共に、全日本ミニバレー連絡協議会を結成。翌年からは全日本ミニバレー協会に改称し、全国規模の協会として運営をすることになり、現在に至っています。

ミニバレーの国際デビューは2002年、札幌市で開催された北東ユーラシア健康体育スポーツ国際会議(北方圏教育文化体育研究会主催)でした。この会議でミニバレーに関する実践発表を行ったところ、参加していたロシア、韓国、中国の研究者の注目を集めることになりました。特にサハリン国立総合大学のピョートル・パシュコフ教授が熱心で、同教授との出会いが、その後のロシアを始めとした海外進出の足掛かりとなりました。

ロシアにはミニバレー専用コートを設置している幼稚園もある

サハリン国立総合大学はサハリン州の州都であるユジノサハリンスクにあり、教授はサハリン州を中心にミニバレーの普及活動をされていました。その後、11年にロシア西部のレニングラード州サンクトペテルブルクで開催された国際会議に教授を通じて私に招請があり、ミニバレーのデモンストレーションを行いました。こうして、パシュコフ教授を始め、ウラジミール国立大学のバトツイレノヴァ・タマーラ教授、モスクワ・スポーツ省のバイル・ナイダノフ氏らによって、ロシア各地の幼稚園や小学校から大学までの学校教育の場でミニバレーが体育の授業に取り入れられるようになりました。

今ではロシアを始め、韓国、中国、モンゴル、フィリピンなどでミニバレーが行われています。これらは私が直接導入に関与した国々ですが、日本主導で国際組織設立をとロシア・スポーツ省から送付されてきた草案の中には、我々が把握していない東欧や北欧の国々も参加国リストに入っており、ロシア経由でミニバレーの輪が広がっていることが分かりました。そうした経緯もあり、今年中には国際組織を立ち上げ、東京オリンピック後に世界大会を開催する計画もあり、現在、国内外の関係者と協議を進めているところです。ミニバレーの世界大会が開催されることになれば、発祥の地・大樹町としても、また私個人にとっても名誉あることで、夢の実現に向かって全力を尽くすつもりです。

一般社団法人全日本ミニバレー協会は、生涯スポーツ、みんなのスポーツとしてのミニバレーを国内外に普及発展させる団体として、「であい・ふれあい・わかちあい」の心を基調に活動を進めています。その上で、地域住民の健康づくり、仲間づくり、ひいては地域づくりの推進に努め、健康で心豊かな社会の創造に寄与することを目的にしており、大きな夢の実現と共に、この基本精神も大事にしていきたいと思っています。

2020.02更新(取材・構成/鈴木秀晃)

こじま・ひでとし:1946年8月、北海道大樹町生まれ。代々神官の家系に生まれ、國學院大學卒業後、大樹町教育委員会に勤務。72年から社会教育課体育青少年係に配属され、ミニバレーを考案。町民スポーツ大会などを通じて普及に努め、94年には町がミニバレーを町技に指定した。2005~09年大樹町教育長、06年大樹ライオンズクラブ入会、15年クラブ会長。全日本ミニバレー協会会長。モンゴル体育学研究所名誉博士。

↓ミニバレーのルール