歴史 日本にまかれた平和の種。
日本ライオンズの誕生

日本にまかれた平和の種。日本ライオンズの誕生
1952年3月21日、東京・丸の内にあるホテル・テイト(現在のパレスホテル)で開催された東京ライオンズクラブのチャーター・ナイト

アメリカ・シカゴでライオンズクラブが誕生したのは1917年。38歳の実業家メルビン・ジョーンズが、助けを必要としている人々に手を差し伸べ、より良い地域社会をつくろうと、奉仕を目的とした全米組織を設立したのが始まりだ。彼の理念は瞬く間に世界に広がっていった。

日本で最初のライオンズクラブ、東京ライオンズクラブが結成されたのは1952年。日本が国際連合への加入を認められたのが1956年だから、ライオンズの世界ではこれに先んじて、日本が国際社会の一員になったことになる。35番目のライオンズ国だった。

日本にライオンズクラブを作ることを、ライオンズクラブ国際協会の執行機関である国際理事会に提案し、東京ライオンズクラブのスポンサーとなって結成に導いたのは、フィリピンのマニラ ライオンズクラブだった。フィリピンといえば、第2次世界大戦で日米決戦の舞台となり、多くの国民が巻き込まれるなどして甚大な被害を被った国だ。特に激しい市街戦が行われた首都マニラの傷は大変深いものだった。そのフィリピンから選出されていたゴンザレス国際理事が、終戦からわずか7年後に、「日本にライオンズの種を植え付けるためにマニラから人を派遣することを、理事会で認めてほしい」と申し出たのだ。

1952年3月21日、東京ライオンズクラブの認証状伝達式(チャーター・ナイト)ではゴンザレス国際理事が「戦争は終わったのだから、憎しみを超えて、日本とフィリピンはこのライオンズの組織を通して再び手を携えていこう」と呼び掛けた。両国国旗の交換が行われ、大きなフィリピン国旗を胸に抱いた東京ライオンズクラブの石川欣一初代会長は、「涙が出そうになって困った」と、後にこの時の思い出を語っている。

東京ライオンズクラブのチャーター(認証状)

夜明け前

さて少し時間を戻して、東京ライオンズクラブが結成されるまでを見ていこう。

1951年秋、国際理事会で了承を取り付けたゴンザレス国際理事が「日本にライオンズクラブを作らないか」という手紙を送った先は、かねてから親交のあった今村栄吉氏だった。商社を経営し戦前からフィリピンに渡ることがあった今村氏は、1951年に「フィリピン友の会」という日比間の友好親善を図ることを目的とした民間組織を結成、戦中は毎日新聞の特派員としてフィリピンに派遣されていた石川欣一が、同会の常任理事を務めていた。東京駅の近くに置かれた友の会の事務所で、今村氏と石川らはゴンザレス国際理事からの手紙を前に首をかしげた。「このライオンズクラブとは、いったい何だろうか?」。誰もその名を聞いたことすらなかったのだ。

謎が解けぬまま冬を迎え、フィリピンから同国ライオンズの特別代表であるジョージ・バレネンゴアが日本へやってきた。彼はフィリピン友の会の事務所に日参し、ライオンズの何たるかを熱く語った。聞けば大変良さそうな話だし、わざわざフィリピンから来てくれたバレネンゴアへの筋を通すべきだろうと、今村氏らは日本にライオンズクラブを作ることに賛成したのだった。

すると今度はシカゴの国際本部から「3月に国際第1副会長が訪日するから、その機にチャーター・ナイトを開催するように」との連絡がきた。さあ大変。ライオンズを知ったばかりの日本人たちはとりあえず受け売りで意図を説明し、日本語を話せないバレネンゴアは在日外国人をターゲットにして、必死に会員を勧誘した。そうして何とかチャーター・ナイトまでに集めた会員29人は、10人が外国人。式典の司会進行は英語で行われた。

フィリピンから日本へやってきたバレネンゴア(ソフト帽の男性)と、東京ライオンズクラブ初代会長の石川欣一(眼鏡の男性)

広がる日本ライオンズ

1952年3月の東京ライオンズクラブ結成後、クラブは次々と増えていった。この年のうちに神奈川県・横浜ライオンズクラブが誕生、翌53年に兵庫県・神戸ライオンズクラブ、大阪ライオンズクラブ、愛媛県・松山ライオンズクラブ、京都ライオンズクラブが、54年には愛知県・名古屋ライオンズクラブ、岡山ライオンズクラブ、兵庫県・姫路ライオンズクラブ、そして55年1月に広島ライオンズクラブが結成され、クラブ数は10クラブに達した。会員数はこの55年の、ライオンズ年度の年度末である6月末には500人を、翌56年の6月末には1000人を超えた。

とはいえ、ただ順調に成長を続けてこられたわけではなかった。東京ライオンズクラブでは、英語の例会をおっくうに思う日本人メンバーや、組織作りに重きが置かれなかなか奉仕活動が始まらないことに業を煮やした外国人メンバーが去っていった。また、まだ敗戦の傷跡が色濃く残る地域も多く、社会奉仕を広めるには尚早と思われたり、これはという人は既にロータリークラブに入っていたりと、道を切り開くには大変な努力が必要だった。

それでも日本ライオンズの開拓者たちは、ライオンズクラブの精神「ライオニズム」への理解を深めるにつれ、これを日本全国に広めなければという思いを強くし、一つずつ目標を実現していく。

53年には日本に暫定地区が設定され、初代地区ガバナーに東京ライオンズクラブ初代会長を務めた石川欣一が就任した。55年5月には第1回302地区年次大会を神戸市で開催。その翌月にはアメリカ・ニュージャージー州アトランティックシティーで開催された第38回国際大会に、日本のライオンズ・メンバーが初参加した。フィリピンからもたらされたライオンズの種は日本で芽を出し、根を張り、ぐんぐんと成長していった。

2018.01更新(文/柳瀬祐子)