歴史 沖縄海洋博を楽しんで!
車いすを押して会場を案内

沖縄海洋博を楽しんで! 車いすを押して会場を案内
手塚治虫がプロデュースした沖縄海洋博のシンボル「アクアポリス」→『ライオン誌』75年11月号

1972年5月15日、第二次世界大戦終戦後27年間にわたりアメリカの施政権下にあった沖縄が、日本に返還された。その3年後の75年7月20日から翌年1月18日の183日間、沖縄県本部(もとぶ)町で沖縄国際海洋博覧会が開催された。これは日本政府が主催した沖縄本土復帰記念事業で、世界で初めて開かれた海洋博だ。テーマは「海─その望ましい未来」。会場は四つの区域に分けられ、それぞれの区域はブドウなどの房を意味する「クラスター」と呼ばれた。魚のクラスター、民族・歴史のクラスター、船のクラスター、科学・技術のクラスターだ。亜熱帯の島、沖縄の自然景観を生かし、明るい太陽と潮風、爽やかな緑にあふれた会場に、50近くの国や国際機関、民間企業がパビリオンなどを展開。漫画家・手塚治虫のプロデュースによる人口島アクアポリスは世界初の海上実験都市として、宿泊施設、食堂、医務室、劇場、更に水耕栽培エリア、海洋牧場(魚の養殖場)の他、ゴミの無煙焼却装置、汚水処理装置が設置され、海洋博のシンボルになった。期間中の来場者数は約350万人に上った。

「世界中から多くの人々が訪れるこの海洋博で、ライオンズクラブも奉仕活動をすべきだ」という声が、地元の沖縄を中心に同県が所属する332W-G地区で上がった。この時点で既に沖縄県の10クラブ(4150人)は、ライオンズクラブのマークの付いた海洋博広報車1台を寄贈していた。更なる活動について検討を進め、70年大阪万国博覧会でのライオンズの活動を参考にして、海洋博内を訪れる身体障害者や高齢者への支援を中心に据えることを決定。その資金として地元沖縄県のメンバーは一人5000円を、それ以外の332W-G地区内4県(熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県)のメンバーは1500円を拠出し、約1000万円を集めることになった。

332W-G地区が計画した主な奉仕事業は次のものだ。
・ライオンズ・マーク付きの車いすを100台用意し、会場北ゲートと南ゲートにあるベビーカーや雨傘等の貸出所に配置。車いすは海洋博終了後、沖縄肢体不自由児協会を通じて施設に寄付する
・沖縄県のメンバーは当番制で毎日会場の奉仕に当たる
・肢体不自由児、交通遺児(中学生以下)の入場料400円×1000人を負担する
・案内看板、歓迎塔を設置する
・これらの事業における管理費、修繕費等は、記念バッジ等を作成・販売しこれに充てる

沖縄海洋博での奉仕事業について屋良朝苗知事と協議するライオンズ・メンバー

沖縄国際海洋博覧会協会の協力で、北ゲートを入ってすぐの身体障害者センターの建物内にライオンズクラブのための135平方mのスペースを確保、また専属事務員1人も配属された。ここに沖縄国際海洋博記念アクティビティ事務所と、記念バッジ等を並べるライオンズ・コーナーが設けられた。センター前では、ライオンズ・メンバーがそろいのライオンズ帽をかぶりベストを着て車いす利用者たちを明るく出迎えた。そして広い会場内を楽しく上手に回る方法を説明し、車いすを押して会場を案内するのだった。海洋博協会としても、各パビリオンで障害のある人を優先的に入場させたり、車いす使用者用のパンフレットを作成するなど配慮に努めており、事前に自ら車いすに乗って会場を体験視察したライオンズの瀬底正一特別実行委員長も「十分に楽しめた」と感心している。実際、海洋博を訪れサポートを受けた人たちからは、たくさんの喜びの声が寄せられた。

「設備の整った会場での見学が、私たち身障者にとって大変役立ちました。ライオンズクラブの皆さんにも車いすなどを押してもらい、気楽に見て回れました」
「会場に着いてから一日中親切にお世話頂き、誠にありがとうございました。団体申し込みすることも知らずに突然お伺いしましたが、いろいろと皆様からスケジュールも指導頂き、みんな楽しい一日を過ごすことが出来ました」(石川市身体障害者協会会長他53人)
「大変お世話になりました。お願い申し上げたいことは、身障者でも不自由なく見学出来ることを、海洋博協会はもっとアピールすることです。このことを知らない人々がたくさんいます」

海洋博には車いすの利用者も多く訪れた。そしてまた会場内では車いすを押すライオンズ・メンバーの姿もよく目にされた

海洋博開催から2カ月が経過した頃、ライオンズクラブで記念アクティビティ事務局長を務めていた利根一男(名護ライオンズクラブ)が、「海洋博会場からライオンの皆様へ」(75年11月号)という手記をライオン誌に寄せた。そこには、沖縄の会員たちが毎日交代でライオンズが寄贈した車いすを押して会場を回っていること、この事業をやってよかったという思いがつづられている。更に、「本土からの入場者はほとんどが添乗員に率いられた団体客で、突然現れいつの間にか去っていく。この機会に沖縄の真の良さを発見し、沖縄を理解してほしい」とし、ライオンズ・メンバーに向けて、海洋博を訪れ、沖縄のライオンズの仲間を通して沖縄の自然、歴史、文化に対する理解を深め、友情の輪を広げてほしいと訴えた。

これを読んだ島根県・松江湖城ライオンズクラブの荒木八洲雄・栄子夫妻は、早速沖縄海洋博を訪問。地元ライオンズと交流、奉仕事業にも飛び入り参加し、彼らの指導で車いすを押しながら会場内を歩いた。「なんといいアイデアを生み出したのだろう。大いにまねをして、今後も機会あろうごとに活用したいものである」と本誌に報告している。

沖縄のライオンズが参考にした大阪万博での身体障害者へのサポートは、これを視察したライオンズクラブのロバート・マッカロウ国際会長が、「アメリカのライオンズでも取り入れるよう提案したい」と称賛した活動だ。それが沖縄海洋博にも受け継がれ、更に輪を広げた。海洋博の目的の一つは、利根事務局長が求めたように、人々に沖縄に対する理解を深めてもらうことだったろう。身体障害者センターを利用した人たちに関しては、他の来場者よりもより高いレベルでその目的に沿う交流が達成されていたことは間違いない。

2020.06更新(文/柳瀬祐子)